• yagiwataru

想像力が欠如してると何が悪いのか






わりと当たり前のように「想像力の欠如」は非難の言葉として使われる。 でも意見が対立しているときは、想像力が欠如しているほうが勝ちやすい。自分の非を認めてしまうと負ける。裁判では「私にも落ち度があったかもしれません」と言ったらアウトなのだ(たぶん)。誰かともめたとき「すみません」と誤ったほうが負けるとか。そんなことを思いながら、想像力とはいったい何のためにあるか?必要なのか?と考えるようになった。

ぼくは今でこそフリーランスのイラストレーターだけど、以前は制作会社に勤めていた。ここだけの話、社員たちは会社の愚痴を言うのが常だった。入社早々のぼくも先輩たちの意見にすぐに馴染んでいき、毎日顔をあわせるたびに、社長や上司の愚痴を言い合うようになった。自分の無能っぷりは棚にあげて。それで十分、社員同士の連帯感があったような気がする。悪いのは社長や会社の仕組みだと意気投合できた。

でも今、そこの会社の人とは連絡を取り合ってない。 会社をやめると、共通の「敵」がいなくなって、みんなとつながっていたように思っていたのは、ただの錯覚だったと気づく。


*想像力のない人の強さ

イラストレーターは個人事業主だ。 誰も雇ったことはないが、収入が不安定になったことで、以前勤めていた会社の社長の気持ちが少しわかるようになった。入ってくる収入は不安定なのに、毎月定期的にお金が人件費としてごっそり消えていくことの恐怖・不安が、少し想像すればわかる。人を雇うことそれ自体が大変だ(この辺は創業社長かそうでないかとかでも感覚は違うかもしれない。雇われ社長もまた感覚は異なるだろう)。

それで、今みたいなウイルスの感染が懸念されて業務に支障をきたすようになると、いっそう社長の身は引き裂かれていく(と想像する)。

社員を自宅待機させるべきではないですか?なぜこういうときのことを考えてちゃんと体制を整えてなかったんですか?社員の安全を考えてくれないんですか?そうだ、給料はちゃんと払ってくださいね。

社長ばかりを擁護する気はないのだが、社員としての人生をまっとうしていると、社長のことはなにも考えなくなり、社長の気持ちを想像することがなくなる。もちろん社長も、自分の収入や会社の存続のことばかりを考えていたら、社員の気持ちや状況を想像できなくなっていくだろう。


*世の中は批評家だらけ

コロナウイルスへの感染対応をめぐっては、①政府の対応を批判する人がいて、②政府の対応を批判する人を批判する人がいて、③対応を批判する人を批判する人を批判する人がいる。

世の中は批評家だらけなのだ。 というよりも、現代人はみな、生きている限り批評家になる。批評家になるように社会から要請されている。その要請のひとつが選挙権で、選挙権が自然に与えられるのは、あなたも政治や社会をきちんと見極めてください、という要請である。だから世の中を批評的に見る必要がある。

批評の定義は、「何か物事を吟味し、ものの良し悪しを決める」という意味で使っている。

政治に対しても、人々はあれやこれや批評し、オレならこうするね、どこぞの国のようにすべきだね、と口々に言う。そういうありようこそが民主主義なので、ぼくはみんながあれこれ言い合うのは良いことだと思っている。


*批評の良し悪し

だけど批評行為そのものにも、良し悪しがある。 会社の仕組みを何も知らない若造が、社長のありようを批評するとき、その批評はほとんどが的外れなものに違いない。 もちろん純粋に、給料安すぎ、などの不満を持つのは自然なことではある。だけど自分の待遇の不満を感じると同時に、会社の仕組みや、どれくらいの収入があるかは把握する必要がある。

社長じゃない時点で、そこには想像力が必要だ。そして、社長の思考や収入まで想像してしまうと、いままで自分が感じていた怒りのいくつかを否定しなければいけないことに気づく(本当にブラック企業だったら気づかないかもしれない)。 確かに待遇には不満があるが、この会社のそもそもの経営が危うかったのだとか。そもそも市場全体が縮小している産業に自分は飛び込んでしまったのだとか。入社する前になんで気づかなかったんだろうとか。

想像力を身につける過程で、過去の自分を否定するときが来てしまう。 そのとき、「あのときの自分はまだ無知だったな」と思えるかどうかは今後生きていく上で重要になってくる。つまり、自分が間違えることまでわかっていれば、他人の間違いに対して寛容になれるということだ。


*想像力のある人の弱さ

しかし、想像力は身につけないほうが身のためだ。 他人の痛みや苦しみを感じることもなく、ずっと愚痴を言い続けることができるから。だからこそ現代人は、ぼくも含め、想像力を養うことを放棄してきたように思う。他人の痛みを想像しないことによってこそ、自分の毎日の生活に集中できる。地球環境を想像しなければ、ゴミはその辺に捨てることができる。原発事故の被害を想像しなければ、原発はわりと気軽に建てられる。森に住むゴリラの家族を想像しなければ、簡単に森を破壊できる。気楽である。逆にこれらすべてのことをありありと想像してしまうと、人は何も動けない。 想像力がないほうが、短期的には大きなメリットを享受できる。 自分の意見の正当性を確信でき、つよく主張できる。つよく主張する人が何人か集まると意見が通るようになっている。それがポピュリズムにもつながっていく。

ぼくは、想像力がある人のほうが、自分の意見の正当性を確信できないと思う。「想像力に限界がある」とわかっている人、と言い換えても良い。だからこそ政治は「民主主義」を採用したのではないだろうか。王様や貴族には想像力の限界があると気づいた人が、みんなの意見を聞くようにルールを変えたのではないだろうか(詳しく知らないので適当に書いている)。


*みんな揃って想像力がない

人はみんな、自分のことしかわからない。だからこそ「少数派は自分で声をあげてください。たとえ少数でも、意見があったら聞きます」というような制度を設けた。 しかし少数の意見まで聞く民主主義は、本当に面倒くさい。面倒くさいということは、時間もかかる。だからこそ危機に弱い。そしてぼくは、たとえ危機に弱くても、全体主義よりははるかにマシだとずっと思っている。全体主義とは、「想像力がないことに気づいていない人」が、「想像力がないことに気づいていない指導者」を支えるシステムだ。「これでうまくいくんだ!」と叫ぶ人がいて、それを「そうだ!」と支持する。

でも「想像力が欠落してない人はいない」と思えば、「これでうまくいくんだ!」という宣言は嘘だということだけはわかる。世の中は常に、うまくいっているところと、うまくいっていないところのバランスを調整しながら進んでいく。


*結論と補足

結論)誰かの想像力が欠如しているのではなく、人の想像力は常に欠落している。自分の想像力を過信しないほうが良い。そもそも新型コロナウイルスについても、ほとんどの人は想像してなかったんだから。


補足1)ポピュリズムの何が悪いか、今まであまりわからなかったけど、失敗を反省できない点でかなり悪い。政権担当者が責任を担ってくれれば人事の交代はありうるが、ポピュリズムは「国民の声」という時点で交代できない。失敗のツケは国民が負う。


補足2)「命か経済か」の質問に対しても、想像力の欠落を感じる。命を重視している人は、命を重視した結果、どのような社会が到来するかを想像できていない。一方で、経済を重視している人も、命が失われる現場を想像できていないだろう。でもまあ、この質問は問いの立て方が違う気がする。どちらにしろ命は失われる。誰の命を、どのくらい気にするか、の違いで少しずつ意見が割れる。